DH: はい。でも、それを直接やることはそれほど簡単ではないでしょう。人間として自分は何かを発見することは大切だと思いますが、でも分離した試みとしてそれをやることは簡単ではないだろうと思います。それは自分の本当の姿の副産物の一つです。私が自分とは本当に何かを知るまでは、ダグラスがダグラスとして何なのか知ることはありません。私の中心的関心がその人間ではないかぎり、もっと自分自身に対する貴重な洞察を得て、もっと私は真正な人間になると思います。
RL: あなたはそれがどのようにうまくいくと理解していますか? なぜそうなのでしょうか?
DH: 私は自分がある種のバカだと思っています! 私の秘密は、私にはすべての質問に対するたった一つの答えしかもっていないということです。つまり、誰がその質問をしているのか? を見るということです! ですからそれは実に答えるのが簡単なことなのです。人としてのダグラスのために最善のことを私がするためには、彼をもっと真正な人間にするためには、もっと世の中で役に立つ人間にするためには、もっと人間に、もっと個人にするためには、さて、そのことをめざさないことなのですよ。
もしあなたがそれをめざせば、あなたはゲームをすることになります。でももし自分の本当の姿を見ることをめざせば、そのことがあなたの人間性の面倒も見てくれることでしょう。そして、それはただ、ダグラス・ハーディングにだけ当てはまることではありません。私はそれを私の友人たち、自分の本当の姿を見ることに価値を置いている友人たちの中にも気づきました。彼らは非常に違っています。このことは、彼らを何らかの霊的理想のクローンや複製品にしたりはしませんでした。彼らはまったく個人のままですし、事実、もっと個人です。RL: あなたが言っていることは、自分の個人性は、もしそれをじゃましなければ、自然に出てくるということですか?
DH: はい、私が言っていることはそういうことです。そして、それが本当に出てくることは重要なことですが、でもそれを分離した試みとしてめざすのではありません。あなたが自分の本当の姿を見るとき、人々のところへどのように行くかにかなり興味を失います。あなたは自分が人々に印象を与えているのかどうか、自分の人格が適切かどうかというたえずつきまとう不安から解放されます。心配しないで自分の本質に興味をもつとき、人間としての人格もずっとよくなると私は本当に思っています。実際、人間として自分は誰なのかを発見することは重要だと思います。問題は、どうやってそれをやるのか? ということです。私が思うに、自分の本当の姿を知らなくて、直接人間性を調べても、あまり実りあることにはならないでしょう。
RL:でも、たとえば、あなたは自分が著作家であることを知っていますね。DH: それは私が思うに、非常に表面的なことではありませんか?
RL:でも、それがその質問のレベルです。DH: さて、私は自分が何であるか見、そして、自分がそれについて書いていることに気づきます。でも書くことは、その見ることから進行してきます。
質問:「私は、ダグラスはなぜめったに祈りの話題にふれないのだろうか? と思います。そのことは私を当惑させます。なぜなら、祈りの話題は宗教では非常によくあることで、おそらく普遍的なものだからです。なぜあなたは祈りについてめったに話したり、書いたりしないのですか?」DH: さて、私たちは2種類の祈りを区別しなければなりません。一つは、私の腹痛がよくなりますように、天気がよくなりますように、誰かが私にイヤなことをすることをやめますようにといった嘆願的な種類の祈りです。こういった種類の祈りは、私には興味がありませんし、それは効果的だとも思いません。まあ、一部の人たちには向いているのかもしれませんが。それは、この魔術をあなたのために働かせてくれる、向こうの何らかの神意をもしあなたが信じれば、ある種の魔術として働くかもしれません。でも、それは私向きではありません。
もう一つの種類の祈りは、非常に異なるものですが、次のようなものです。たとえば私が、自分が非常に愛している誰かの健康や自分の健康、あるいは自分が仕事をする能力を願うとします。それは本当に非常にふさわしい要求ではあるのですが、必ず「御心(神の意志)が為されますように」を付け加えることです。私はこれが好ましいと思っています。つまり、自分の意志ではなく、御心がなされますように、ということです。すると、問題は、誰が誰に祈っているのかということですが、もちろん、究極の絶対的意味においては、あなたの本質があなたの本質と会話をしているのです。それはあなたの本当の姿の内部で進行しているようなもので、それは重要であるばかりでなく、欠くことができないものです。私が病院に入院して痛みの中にいたとき、それは私には非常にイヤな痛みだったのですが、この種類の祈りを多くしたと思います。DH: 私がめったにそれについて書かないのは、祈りは私の心に浮かぶことではないからだと思います。事実、私はそれを祈りとは呼ばないでしょう。祈りには、お願いするというすべての他の意味が含まれていますが、人はそれをしているのではないのです。人は、本当はお願いしているのではないのです。人は、明らかにもっと苦痛が少なく、もっと喜びが多いことを望み、自分の親しい人たちの健康と精神状態がよくなることを望むことだと思います。そういった種類の望みは、ある種の祈りだと思いますが、でも、それは本当の種類の祈りでなければならないのです。
私は本当の祈りを求めます。それについて書くのではなく、求めますが、それは、それにもかかわらず、「御心がなされますように」です。Head Off Stress(頭からストレスをとる)の本の中で、私は意志の三つの深さを区別しています。最初のものは、表面的なもので、それは、私が望むものです。二番目のものは、私が本当に望むもので、それは、私が望んでいると思っているものとまったく違うかもしれず、私の行動は、私が望んでいると思うことが間違っていることを示すかもしれません。ということで、あなたは表面的意志と、そして、自分が望んでいることとは反対であるかもしれないより深い心理的意志をもっています。さらに、あなたは最も深い意志をもっていて、それはあなたの本当の姿の意志です。ここでのそのスローガンは、「御心がなされますように」です。DH: 私は、人は見ることと感じることは注意深く区別しなければならないと思います。純粋に見ることの要点は、あなたはそれを欲しいときに得ることができるということだと思います。あなたは自分の気分がどんなであれ、自分がどれほどひどい感情、あるいはよい感情を感じているときでも、自分の本当の本当の姿を常に見ることができます。でもこのことは感情にはあてはまりません。私は感情に命令することはできず、「自分はこれからこの感情を感じる」と、私は言うことはできません。もしあなたがそれをすれば、成功するように見えますが、その感情は純粋ではなく、それは自己欺瞞です。私が思うに、感情は瞬間的に起こるか、それとも何もないものです。もしそれが自分に自然に来ないのであれば、もしそれが人工的なものであれば、それは価値のないものです。
愛などの感情を育成する目的の練習についてもそうです。私は、仏教徒たちがそういう練習をすることを知っていますが。彼らは愛の感情をあらゆる方向に送り出し、宇宙を通じて愛の波動を放射します。私はそれを批判はしませんが、私の方法ではありません。そのことには、すべてのことを弱めてしまう人工的要素があるように思えますが、もし彼らにそれをすることができれば、彼らに幸運を祈ります。でも、私の方法ではありません。