インタヴュー(他のインタヴューは、左のメニューを見てください))
ダグラス・ハーディングへのインタヴュー1983年
リチャード・ラング(以下、RL):ダグラス、あなたは長年、文章を書いて、ワークショップをしています。あなたのワークとはどういうものでしょうか?
ダグラス・ハーディング(以下、DH):それは私がいつも自分にたずねる必要がある質問です。私のワークとは何なのか、あらかじめ包装された、決まった考えをもつことではなく、毎回自分に向かって新たにそれを尋ねるために。リチャード、このインタヴューのために、「私は何をしているのか?」、 自分に何度も何度も尋ねる必要があります。一体私は何をしているのか? さて、私は人生の終わりにかなり近づいてきたので、「それは何についてだったのか?、「それは何のためだったのか?、尋ねることは非常に自然で適切なことでしょう、私個人にとって生きているとは何なのか? 存在しているとは何なのか? 私が言うべき最初のことの一つは、私が存在すること、(存在が)起こってしまったことは、驚くべきことだということです。私は、ただダグラス・ハーディングであることを意味しているのではなく、ただ存在していること、気づいていること、気づきであること、あるいは気づきそれ自身であることを言っています。この気づきを手に入れて、つまり、気づいて、それを味わわないとは何と驚くべきことで、残念なことでしょうか! こういったことに興味をもたないことは、ひどく残念で、悲しいことで、臆病なことに思えます。ですから、私が何をしているかを一番短く説明すれば、自分自身の神秘に目覚めるということです。
RL:あなたの自分自身へのワークとともに、世界におけるあなたのワークはどういうものですか?
DH:そうですね、私は、世界での私のワークは、自分へのワークにきわめて従属しているものと見ます。私が思うに、私が世界を助け、そして、影響を与えることができる、つまり、世界に何らかの価値あるものを提供できるという考えをもつことは、私の生が私にとっては何なのかという基本的質問に答えることに比べれば、二次的なものであり、それに依存しているのです。私が自分自身の行為をまとめて、自分の問題を解決するまでは、私が他の人たちに話すべきことは何もないように思えます。でも、私がそれをしたとき、私が自分であるとはどういうことかに答えたときには、そのときはそうすることはよいことでしょう。というのは、単純な真実は、私が考えてきたあらゆることとあまりにも違い、あまりにも価値があり、あまりにも興味深く、あまりにもすばらしく、あまりにも深く私の生き方に影響を与えているので、それを世界と分かち合いたいと思うことは、とても自然なことだからです! そしてそれを分かち合う方法については、たぶんあなたのあとの質問に出てくることですね
RL:で、その方法とはどんなものでしょうか?
DH:その方法とは、注意の方向をまさに180度回転させるということです。私たちの注意は普通、自分の前方、外側の方向に向かっています。それは対象に向けられていて、それはとても正当なことです。私は今、あなたを見ていて、私の注意は、リチャードの方向です。でも、この瞬間その注意はどこから来ているのでしょうか? 私の注意の矢とは何で、それはどんな弓から放たれているのでしょうか? 私が今していることは、矢を回転して、ここには、私が向こうで発見するようなものは何一つないことに気づくことです。ですから、私がしていることは二方向に見るということであり、それらはお互いにまったく正反対なのです。一つは、私が見ているものを見ることで、それは片手をあごにあて、片手にペンをもってそこにいて、私を見ているリチャードのことです。もう一つは、リチャードのイメージとは180度反対の方向で、そこにはそのようなものがありません。私は絶対的にここに何も発見しません。確かに私が向こうで発見することに対応する何もありません。ここには、リチャードに対立する顔も、頭もありません。私はリチャードのために、自分が空っぽにされたことに気づきます。
そして、これこそ、そこから、すべてが進行してくる、本質的経験です。この他者のための空っぽさは、私が楽しんでいるものです。そして、私が人々と分かち合おうとして、それを世界にもたらすとき、これこそ、私が人々に一人ひとり自分のために見てもらうものです。私は人々に何を発見すべきか言うことはできませんが、私が発見したものを人々に言うことで、励ますことはできます。私は人々に、彼らが私と同じ状態かどうか確かめてもらいたいのです。
RL:ということは、あなたは自分自身のためには、あなたがそう見える外見とはまったく違っていることを見ているわけですね。
DH:「普通の」人間であるということは、私がそう見える外見であるという主張にだまされることです。さて、私は、そう見える外見ではないと申し上げます。さらに、私はそう見える外見とはまったく正反対のものです! 私がそう見えると言うとき、私は、そこにいるあなたにとってそう見えるという意味です。
RL:あなたは、私には人間に見えます。
DH:もちろん、私は、2メートル離れたあなたのところでは、人間に見えます。でも、ゼロメートルのところで、私が自分を見ると、私はあなたが受け取っているようなそれらの特徴の何一つ発見できません。ここには目もなく、口もなく、ほほもなく、髭もありません。ですから、リチャード、この瞬間、私たちは、顔対顔にはなっていません。私は人生で、今まで一度も決して誰とも、顔対顔になったことがありません。私には、この顔対顔ということは、偉大なごまかし、宇宙的信用詐欺のように思え、多くの理由で、最後には人生を荒廃させてしてしまうものと確信しています。
RL:あなたはこの理解にどのように到達したのですか?
DH:私の人生がひどく混乱して、そして、私があまりに不満足な人間であったからだと思います。つまり、私はただ、何が間違ったのか発見しなければいけなかったのです。さらに私は、なみなみならぬ好奇心と探求心に恵まれていたので、それでついには自分自身で自分を見なければならなかったのです。長年私の本質とは何かについて、本を読み、考え、熟慮し、私は自分がただ見るために眺めていること、そして、思いきって自分が自分自身についての権威者である、つまり、私が判断できる立場にいる唯一の場所について、自分自身の権威者であることに気づいたのです。他の誰も、それについて、私がまさにここにいて自分であることがどんなことか、自分自身と同時にいるということがどんなことか、私に言うことはできないのです。
いったん私は自分に、「私は何から見ているのか?」を尋ねたら、すぐに、それは私がそうだと言われてきたものとは、あらゆる点で正反対であることが明らかになりました。あなたと面と面と向き合うには、私は、向こうのあなたの肩の上に見るものに相当しているものを何か、ここに妄想しなければなりません。リチャード、私には、自分の人生を中心的ウソにもとづいて生きることは、腐った人生であるように思えます。ちょうど、芯が腐ったリンゴは、腐っているように。
RL:自分とは何かについての気づき、自分は世界の中の物ではないという気づきは、これは、あなたの人生にどのような影響を与えていますか? それはどのように他の人々の人生に影響を与える可能性があると、お考えですか?
DH:非常に多くの点で、影響を与えます。私はようやく、それらについて話し始めることができます。あらゆることが変わりますが、どこから話し始めるべきか知ることは困難です。で、私はある意味で終わりから話し始めるつもりです。この新しい気づきが意味するところは、私が鏡の中を見るたびに、私は、生という名の末期的病気を患っているある物を見ている、というものです。鏡の中の者は、生きています。あの者は生まれました。そして、死んでいきます。あの者は常に変化しています。そして、あの者は本当の私とはまったく違います。あの者は私がそう見えるものです。それは私の中心的現実ではありません。それは私のたくさんの外見の一つにすぎず、それは死につつあります。
ここでの私は完全に向こうにある者とは対照的です。なぜなら、ここには変化するものがないからです。銀河から分子にいたるまで、すべての物は滅ぶということは明らかです。ですから、もし私が一個の物であれば、私は滅びゆくものです。私のすべての外観は物で、現象ですが、しかし、それらがそこから進行してくる現実は現象ではなく、物ではありません。それは物質性から自由であるそれ自身に気づいている気づきです。
RL:人々、動物、そして物との関わりはどうなりますか?
DH:そうですね、人対人、顔対顔、そして、物対物といった対称的関係は、非物質対物との(それは関係ではまったくありませんが)とはまったく、完全に正反対なものになるはずです。想像しうるあらゆる物、あらゆる人と私の関係は、完全に絶対的に非対称的なものです。それが意味していることは、実際、私がその人と関係している代わりに、私はその人であるということです。その人がそのときの、私の外観、私が着ている外見であるという意味で、私は彼または彼女であるのです。それが、私がこの瞬間まとっている形態です。今この瞬間あなたは私を形成し、形づくっています。それはまるで、私がリチャード化されているかのようです。これはすばらしいスタートです。
というのは、そのことは、私はあなたと対立していないという意味だからです。私はあなたと対決していませんし、対立もしていません。さて、対立とは私たちの問題であり、世界が苦しんでいることです。自分とは何かを見ることの結果は、私は、今までもこれからも、一度も自分の人生で、何かと対立することはできない、対立しないだろうことに気づくということです。対立は、私たちの人生と社会がそれにもとづいている大きなウソなのです。ですから、そのウソを追い出して、何が起こるか試してみましょう。それが意味することは宇宙的愛です。
RL:人間関係におけるこの解決法は、外国人、動物、植物、無生物と人との関係に影響を与えるはずです。私は世界で今日起こっているあらゆるレベルのすべての対立と、それをどう解決することができるのかについて考えています。
DH:もし私たちが、世界で進行している恐るべき物事―戦争と搾取、飢餓、そういったすべてのこと―を改善しよう、廃止しようと試みても、つまり、現象のレベルでそのことをやろうとしても、あまり多くを為すことはできないだろうと、私は思います。まあ、無益とは言いませんが、それは十分に根源的なことにはならないでしょう。私たちが物事の根源に取り組むまで、本当は貢献はできないでしょう。そして、物事の根源とは、一人ひとりの個人的人生の中に発見されるべきものです。もし、私がこの瞬間、あなたとの関係において対立という病気を患っているなら、国家的、国際的といったその他のレベルでのすべての問題―男女、民族、宗教、イディオロギー、勢力圏などの間同士の対立に取り組もうとしたところで、何になるのでしょうか? 言いかえるなら、世界への奉仕は、家で始まるのです。繰り返します。世界への奉仕は、家で始まるのです。それは、もし私たちが自分とは何かを発見したら、自分は世界であることに気づくからです。
RL:あなたは、それが憂鬱、不安、怖れ、孤独などの個人的問題、心理的問題にどのような影響を与えるとお考えですか?
DH:ある意味ではこういった人間的な事柄は、それ自身のレベルで進行するがままにしておくことです。私の生の中心には、この気づきがあり、そのまさに本質は自由であることがわかります。それは、物質性からの自由であるばかりでなく、あらゆる種類の思考や感情からの自由でもあります。これらの物事の源泉として、これらの困難な物事の起源として、その仕事は、それらをあるがままにし、自由にそれらのままであることです。私の本当の姿それ自身は、私が人間の性質と呼びたいものを変化させるわけではありません。リチャード、それがすることは、それを置くということです。この困難で時に心痛む事柄は、否定されません。
事実、それは、あの幻想の人からよりも、中心のこの自由からもっとずっと正直に考慮され、喜んで引き受けられるのです。孤独や憂鬱といった問題が続くかぎり、これらの問題を否定する必要はなく、むしろあらゆる点で、認める必要があります。これらの感情をもつことは、この世の中と関わることの代償の一部であり、ある感情は愉快なものであり、ある感情は不愉快で、またある感情は悲劇的です。私は向こうでは、この二元性なくしてはまったく存在できませんし、表現できません。善と悪、美と醜さ、黒と白などの二元性は、こういった二元性のない場所から、世界の中へ表現するための条件です。ですから、これは人がそれらを廃止できるという意味で、そういった物事から自由であるということではなく、それらの位置を確認するという意味で、それらから自由であるということです。それらはもはや中心にはありません。これは単に(問題から自分自身を取り除くことなく)問題から人を引き離すだけではありません。長い目で見れば、また持続されれば、問題を変化させます。ただ、それがどうやってそれをやるのかは、わかりませんが。
RL:あなたは自分自身の人生で、この気づきを通じて、深い平和の感覚に到達したとお思いですか?
DH:はい、まったくそのとおりです。その感覚はこれ以上深くはなれないでしょうし、これ以上、手にも入らないでしょうし、これ以上自分にとって自然で、生まれつきの感覚であることもないでしょう。それはずっとここにあって、達成したり、改善したり、育成したりすることができないものです。それはここにただ見るためにあります。この平和は、私たちのまさに本質であって、出会うべき何かではありません。それはあらゆるものよりも近く、私たちがいるところにあります。私たちはそれへ到達することはできません。私たちがそこから来ているのです。それを見つけるには、一度も去ったことがない場所へ自分が戻ることをゆるすことです。
RL:あなたの新しい技術、その実験について何か言っていただけますか?
DH:私はすでに、その中の一つについて述べましたが、それはおそらくすべての中で一番よいものです。あなたの目の前に顔があるとき、自分自身にすべき質問とは、「向こうの顔に相当するものが、ここにはあるだろうか?」ということです。リチャード、私は今、あなたの目を眺めていて、私はあなたの小さい二つの窓を見ていますが、これらの小さい窓から、あなたは覗いていると申し立てられています。たしかに見事なことです! でも、私はそれらを向こうに発見するのであって、自分がいるところには、目はまったくありませんし、確かに二つではありません。ここで私が発見するのはただ一つの巨大なで、それは東洋と西洋の距離よりも広いものです。それには枠はなく、それは楕円形のようなものでありますが、でも無限の広さがあります。一組の小さい覗き穴の代わりに、ここで私が発見するものは、これです。再び、私は今、あなたの顔の色を眺めています。もしここに何かの色があったなら、私はどうやってその色を取り込むことができるでしょうか? 私はあなたの髭、髪の毛、皮膚の複雑さ、すべてのそういった形態や手ざわりの微妙な違いを見ています。
そして、私はここには、そういったものがまったく何もないことに気づきます。向こうで私は、複雑さのすばらしい試みを発見し、ここでは単純さ、完全な明晰さ、向こうに発見するものからの完全な自由と解放のすばらしい試みを発見します。私はあなたの目が動いていることに気づいていますが、さて、ここには何の動きも発見しません。あなたが階段を下りていくときには、それはあなたがすることです。でも、私が階段を下りていくときには、私はまったく階段を下りず、階段が私の中を下りてくるのです! もし私が車に乗れば、全風景が動いています! 事実、人生のあらゆる物事、人生のあらゆる部分は絶対的に、私にとっては、自分自身――今ここでの、本当の自分自身のことですが――について聞かされてきたあらゆることが、逆さまであることを発見する機会なのです。実際、自分自身について、自分に真実を言うことは、心理的にも霊的にも非常に重大であるばかりでなく、信じられないほど楽しいことです。自分を騙すことは、退屈で病気です。
RL:あなたは自分の将来と自分のワークの将来をどう考えていますか?
DH:二番目の質問から始めましょう。私が示したいくつかの実験の技術に何が起こるかということですが、もし人類が生き残るとすれば(そして、私にはその可能性がかなりあると思われますが)、非対立の経験が広まるからだろうと思います。人類の希望は、このことと、そして、非対立の真実に到達するこれと似たような方法にあります。百万年もの対立の時代の全盛期のあとで、この対立という作り話が、私たちの生存を脅かすほどあまりにも非生産的になってしまった時代を、私たちは通過しているように思えます。私たちに必要なことは、それが作り話であることを発見して、別の種類の人生、非対立の人生を生き始めることです。つまり、一人ひとりが相手のために空っぽになるということです。私は自分のワークの将来は、非対立という真実とその必要性を指摘し続けることだろうと思っています。
おわかりのように、真実であれば、そして、それは真実ですから、それは自分自身の面倒を見ると思いますよ。それはすでに、密かにあまり明らかではないやり方で、実を結びつつあります。このことは人々の心をすぐにとらえるというものではありませんが、別のやり方で、もっと深いレベルで働いていることです。いずれにしても、私たちはすでにこれから生きているという事実は、これが生き延びるための最大の保証です。私はそんなふうになっているのです。それは達成ではなく、真実の認識であり、唯一の現実です。対立が作り話なのです。真実は自分自身の面倒を見ると信頼できます。ですから、私は将来について何の心配もしていません。
最初に戻る